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wabi

Author:wabi


治療の一環として始めた海岸散策。
そこで知り合った海岸猫たちと交流を
深めるうちに彼らの魅力に心惹かれて
2009年10月に旧ブログを開設。
そして2015年9月に当ブログを新設。

★プロフィール写真は元海岸猫の愛猫

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東京都荒川区東日暮里で行方不明
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生命力

告知を含めて新たな記事に編集しました

私は今、郷里のネットカフェでこの記事を書いている。

ブログを更新した直後の先月23日の夜、実家の母の容態が急変し救急車で病院へ搬送された。
そのことを知らされた私は、翌24日重い体を引きずるようにして列車に乗り、7時間あまりを要して深夜近くに母の入院した病院へ辿りついた。

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母は一時、危篤状態に陥ったという。しかし私が病室へ着いたときは鼻から酸素吸入されていたが、症状は持ち直していた。

私は母の耳元で名を呼んだが、目を開けているものの、焦点はどこにも合っておらず、病室の虚空を凝視している状態で、私のことも認識しない。


翌日母の意識は混濁し、寝息を立てて眠っている状態で、いくら声をかけても何の反応も示さなくなった。

担当医に母の症状を訊くと、罹患した病名を次々に挙げていく。
「骨髄異形成症候群、腎不全,尿路感染症、敗血症、肺炎」去年発症した疾病もあるが、難病を含む病名の増加に、私は言葉を失った。


そして担当医は私の気持ちを慮ってか、婉曲に無感情な事務的口調で言った。
「お母様が回復する見込みはありません。正直いって余命がどれくらいか分かりませんが、週単位ではなく日単位で考えてください」


それから一週間あまりが過ぎたが、母は時折目を開けるものの、私の呼びかけには殆ど無反応だ。目が呼応していると感じることもあるが、言葉は一切発せず、体も首から下は指一本動かせない状態が続いている。

回復する見込みのない母に面会に行くのは辛く気が滅入るが、自分の体調が優れなかった日を除いて毎日面会に行っている。
医者の見立てが間違うときもあるし、奇跡が起こることもあると期待して‥‥。



母の入院している病院と実家の間に、今年の1月に足繁く通った『山門前エリア』がある。
が、母の重篤な病状を知り沈うつな状態に陥っていた私は、なかなか訪れる気にならなかった。



そんなある日、午前中に母に面会行った帰路、思い立って参道に自転車で乗り入れた。
この日は梅雨の晴れ間で、朝から気温が上昇し真夏日を記録していた。こんな日盛りの時刻に猫は姿を見せないだろうと思い、そのまま通り過ぎようとしたときだった。

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民家の軒先の日陰で涼をとっていた1匹の白猫の姿が目に入った。


よく見ると、それは5カ月前にはまだ仔猫の面影を残していた“オッドアイ”の白猫だった。
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体も大きくなり、凛々しいオス猫に成長していた。
「生きていたのか‥‥」それが、私の第一声だった。



あの時猫風邪に罹っていて、その後どうなったか気に掛かっていたので、元気な姿を見て沈んでいた気持ちが少し癒された。
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野良猫の寿命は、家猫に比べて著しく短い。
3~4歳とも4~6歳ともいわれているが、正確なことは分からない。その年齢もある程度成長した野良の話。野良の母猫から生まれた仔猫の場合生存率は低く、殆どが乳児期に死んでしまう。



そこで試されるのが“生命力”だ。運もあるが、生きようとする強い意志があるかないかで生き残れるかかどうかが決まる。
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ちなみに、イヌワシのヒナは自分が生き残るためにほかの兄弟を殺してしまう。そして親もそれを黙認して丈夫に育つ見込みのある一羽だけに餌を与えるのだ。


野生動物の場合、生まれた瞬間から生きるか死ぬかの淘汰が始まる。たとえその相手が同じ血を分けた兄弟であっても例外ではない。
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野良猫は飽くまでもニンゲンが作り出したもので、野生動物ではないが、生存競争は厳しいと想像できる。


このオッドアイの白猫もまだ1歳を迎えていない幼い猫だ。野良猫の平均寿命まで生きられるかどうか、それはひとえにこの子の生命力にかかっている。
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ただこのエリアの劣悪な環境では長生き出来る可能性は低いと思われる。だがそれも、この子の運命だ。


その運命から救い出せるのは、野良猫を生み出した我々ニンゲンしかいない。
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自分の存在理由も分からないこの子には何ら罪はない。
罪深いニンゲンはそ知らぬ顔で嘯く。「だからエサをやっているじゃないか」と。



私に言わせれば、そんなことは最低限のことだ。自己満足でエサを与えていないというなら、これ以上不幸な子が増えないよう不妊手術を受けさせるのが人としての道義だろう。
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そういえば、目ぢからの強い兄弟が見当たらないが‥‥。


視界の隅に動くものがあったので、視線を巡らせると、表通りに近い飲食店の店先に2匹の猫がいた。
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缶詰に顔を突っ込んでいる茶トラははじめて見る猫だ。


何処からか流れてきたのか、それとも食事時だけほかのエリアからやってくるのか‥‥。
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前足まで使って食べるのに専念している。私の接近にもまるで気づいていない。


黒猫はそんな茶トラをただ見つめているだけだ。
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黒猫の識別は難しい。前回2匹の黒猫を確認しているが、この黒猫がそのときの猫かどうか、私には見分けられない。


茶トラに視線を戻した私は愕然とした。
猫缶だと思っていたが、茶トラが貪っているのはニンゲン用のツナ缶だ。

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ニンゲン用のツナ缶には猫に必要なビタミンが添加されていないうえ、猫には害となる塩分や油分が多く含まれているので、与えるべきではない。


しかし、この子らにとって今日を生き抜くためには必要不可欠な食べ物なのだ。
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このツナ缶を与えた人は動物好きのはず。なのにどうして有害なモノが入っているニンゲン用なのだろう。


知識がないから、それとも知っているがニンゲン用の方が安価だから‥‥。
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「おい、長生きしたければそんなモノ食べるな」そう言ってみても、生きるだけで精一杯の野良は聞く耳を持ち合わせていない。


ここで私がツナ缶を取り上げても、殆ど意味はない。この街にとって異邦人と同じ立場の私には為す術がないのだ。
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昔ならいざ知らず、今では田舎のこの街のスーパーやコンビニにもキャットフードは置いてある。


なのにどうして猫専用のエサを与えないのかと問い質しても、「あげないよりはマシでしょ。それともあなたがエサ代を出してくれるの」と反論されれば私に返す言葉はない。
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そうこうしている間に、茶トラはニンゲン用のツナ缶を欠片も残さず食べ尽くしたようだ。


「なあクロちゃん、お前たちとニンゲンが本当の意味で共存出来る日はやってくるんだろうか?」
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だが黒猫は、きょとんとした顔で私を見上げただけで何も語ってくれない。


何も改善されていないこのエリアの状況に、私の胸は痛んだ。
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そして、それに対して何も出来ない自分に嫌気が差してきた。


15年前に唯一の兄弟である弟が不慮の死を遂げ、そして一昨年の暮れに父が病死して以来、母は実家で独りで暮らしていた。
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実際は認知症が重くなった父がグループホームに入所して以来だから6年間独居生活を送っていたことになる。


母が暮らしていたその実家で、私は今この雑種の老犬と留守居をしている。
10数年前に、遺棄されていた仔犬を母が拾ってきたのだ。

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この犬、捨て犬のときにトラウマでも刷り込まれたのか、極度なビビリである。
特に雷や打ち上げ花火などの大きな音や、草刈機などのモーター音を耳にすると大きな鳴き声を上げて、手がつけられなくなる。



それでも老いていく者同士、母とこの雌犬は互いを支えあって暮らしていた。
母はこの犬がいるから入院を頑なに拒んできた経緯がある。

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母が入院してから、心なしか以前より寂しげな表情を見せるようになった。


私はそんな老犬の体を撫でながら呟いた。「サクラ、ばあさんはもう帰ってこないんだよ」
と、そのとき思いがけず私の口から嗚咽がもれた。

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そして、病床の母にも病状を告げる医師にも見せなかった涙が後から後から溢れてきた‥‥。


7月7日、夕刻。
この日は、母が緊急入院してからちょうど2週間目にあたる。

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私は、担当医から母の余命を宣告されたときから、ある期日を勝手に想定していた。
それが7月7日だ。「2週間を過ぎれば、母の余命はもう日単位ではなく週単位になる。そして1ヵ月が過ぎれば今度は月単位に延びる」という理屈で。



実は昨年の夏、担当医から「お母様の余命は後数ヵ月でしょう。年を越すのは諦めてください」と宣告されていた。ところが、母はその見立てを覆し、小康状態のまま年を越したのだ。
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医者が悲観的な見立てをし、家族が楽観的な受け止め方をするのは世の常。
患者が自分の見立てより早く亡くなれば医者は責任を問われる。しかし、その逆なら遺族から感謝される。



さらにこの日、小さな奇跡が起こった。母が意識を取り戻したのだ。
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昨日まで、開けていても虚空を見詰めてばかりいた目は、しっかりと私の顔に焦点が合い、まったく揺るがない。


私は自分を指差し「誰だか分かる?」と訊いてみた。すると母は懸命に喋ろうとするが、赤ん坊の喃語のように言葉にならない。
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でも「う~、あ~」と発している母の口は、間違いなく私の名を発音する形になっていた。
そして私が病室を去るとき、必死の形相で右手を上げると弱々しく左右に振った。



二度までも医師の見立てを覆した母の生命力に私は感嘆した。
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母もまた、懸命に生きようとしているのだ。






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母の入院で帰省しているため、コメント認証、コメント返しが遅れていますが、事情ご賢察のうえご容赦ください。

中に認証しないことにご立腹の人が1名いますが、今までブログで述べてきた私が抱えている事情も知らず、勝手な思い込みで人を非難するのは己の狷介さを露呈することと自覚すべきだろう。
また左カラムの最新コメント欄の『コメント返しは次の更新後に』という文言を見落としている迂闊さを自省することも忘れないように。
(もしそれらを知った上での確信犯なら話は違ってくるが‥‥)


今は記事を優先したいので、コメント返しは余裕が出来てからになります。


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生きること・死ぬこと その壱

その後母は、日毎に意識がはっきりしてきた。
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7月の中旬頃には生来の好悪の激しい気質を表出させ、担当医や看護師を戸惑わせた。


やがて日中は半身を起こして、呂律が怪しいながらも、面会に訪れた私との会話が成立するようになり、体も徐々に動かせるほどの回復を見せてきた。
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入院4日前に電話で話したのが最後だと、諦めていた私にとって母が意識を取り戻したのは嬉しい出来事であった。


しかし‥‥。
母自身にとって意識の回復は必ずしも歓迎すべきことではない。

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戻ってきたのは意識だけではなかったからだ。


10年ほど前、母は家の中で転倒し、腰に近い部分の背骨を圧迫骨折した。以来背中や腰に痛みを覚えるようになり、やがて歩行に支障を来たすまでに悪化した。

その痛みが、意識と歩調を合わせるように戻ってきて、再び母を苦しめ始めたのだ。


今回担当医と最初に会った際に言われた言葉が蘇ってくる。
「苦痛を感じないという点で、意識のないことは本人にとっては幸いなこと‥‥」

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だから、病床で顔をしかめて痛みを訴える母を見ている私の心境は複雑なものだった。


7月23日、その日は母が救急車で搬送され緊急入院してから1ヵ月目にあたる。

この日を過ぎれば母の余命は月単位になると、私が次の目標にしていた日であった。勿論、私の勝手な思い込みと希望的観測であることは承知している。

ところが、その日を翌日に控えた7月22日午前9時40分、病院の看護師から電話がかかってきた。
「お母様の血圧が下がってきたので、ご連絡させてもらいました」
「それはつまり、危篤状態ということでしょうか?」と私は即座に訊いた。
「いえ、そこまで切迫した症状ではないのですが、一応息子さんには連絡したほうがいいと思いまして‥‥」と看護師。
「分かりました。これからそちらに行きます」私はそう応えると、急いで身支度をして自転車を駆った。



私が病室に入ったとき、母は酸素吸入を受けているにも拘わらず苦しそうに呼吸をしていた。
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見ると、吸入させている酸素量の値はMAXを示している。


病室に来た看護師に母の容態を訊いたら「薬の点滴で血圧は正常値に戻りました」と説明してくれた。
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その点滴の効果が表れたのか、母の呼吸が徐々に穏やかになり、正午前には表情も和らいできた。


それでも投与している酸素量は高い値を維持したままだ。
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昼過ぎ、私が報せを入れていた市外に住む叔母が顔色を変えて駆けつけてきた。これまでの経緯を教えると、叔母は安堵の表情をうかべた。


それから叔母と2人、たわい無いことを病床の母に話しかけ続けた。
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母は自発的に言葉を発しないが、我々の問いかけに「はい‥‥はい‥‥」と応える。


母の容態が落ち着いたのを確認した叔母は、夕刻帰っていった。
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そして、しばらく病室に残っていた私も、看護師に挨拶をして病院を後にした。


その日の深夜だった‥‥。

薬を服用したが、それでも寝付けず輾転反側していたとき、私の携帯が着信音を発した。
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それは、母の血圧が再び下がってきたとの病院からの報せだった。
携帯の着信履歴は、日が替わった23日の午前2時6分を表示していた。



私は街灯の少ない夜中の暗い道を、病院目指して自転車のペダルを懸命に漕いだ。
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病床の母は数時間前とは打って変わり、虚ろな目で天井を見詰めたまま微動だにしない。
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そんな母の顔に自分の顔を近づけ、いくら話しかけても酸素吸入マスクを装着された母の口から漏れるのは苦しげな呼気だけだ。


そのうちに目の前にある心拍数、血圧、呼吸数などを表示するモニターの数値が徐々に下がってきた。
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私は更に声をかけた。「家でサクラが待っているんだ‥‥、サクラに会いたいなら気をしっかり持って!」


すると、私の呼びかけが聞こえるのか、モニターの数値が一時的に上がる。だが、すぐにまた下降していく。
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そんなことを繰り返しているうちに20台だった呼吸数が10台になり、ついに一桁になった。そして血圧は、いつの間にか計測不能の表示に替わっていた。


それでも私はモニターを横目に、酸素吸入マスクに触れんばかりに顔を近づけ懸命に母へ声をかけ続けた。
「川が見えるかもしれないけど、その川を渡っちゃダメだよ!対岸に知った人がいても、近づくんじゃないよ!!」
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でも母は私の声にもう反応しなくなった。それに瞬きをしない母の目は何も見てはいなかった。
そして母は僅かに脱力し、ゆっくりと呼気を吐き出した



すると、今まで不規則な波形を描いていたモニターの描線が一斉に平坦になり、直後ピーッという無機質な音が病室に鳴り響いた。
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それが、母の最期だった。
モニターのデジタル時計は午前4時55分を表示していた。



ややあって病室に駆けつけた当直医が、母の死亡を確認した。
そのため、死亡診断書の死亡時刻と実際の死亡時刻には数分間のズレが生じた。


母の死因は『骨髄異形性症候群』という血液の癌である。
急性白血病に移行することもあるため『前白血病状態』とも呼ばれる。


母が骨髄異形性症候群と診断されたのは2年前の夏、そして発症したのが去年の夏だった。
余命宣告された後の経緯は前回の記事に記した通りだ。


私は今回、人が死にゆく姿を初めて目の当たりにした。弟の死に目にも父の死に目にも間に合わなかったのだ。

人の死は厳粛さを感じさせるものだというが、私が受けた印象は違っていた。

私はただただ不可解だった。
数分前には生体だった人間が、今は遺体と名を替え物言わぬただの物体になったことが


生命活動を停止しただけで、目の前にいるのは母に相違ないのに、だ。

『死は生の中にある』以前、何かで読んだ文章である。
正確な言い回しではないが、意味としては死は生の対極にあるのではなく、生の一部に含まれている、という意味だったように記憶している。


私自身はその文言を読んだ際、“死”は非日常的な出来事ではなく、極日常的な出来事だと理解した。
つまり、“死”は私たちの身の回りのそこかしこに潜んでいるものだと。


電柱の陰や駅のホームの隅や非常階段の踊り場やコンビニの雑誌コーナーにひっそりと佇んでいるのだ。
あまりに身近な存在である“死”を、だから人は恐れ忌み嫌うのだろう。


母を最期を看取った私は、死がもたらす変化をにわかに受け入れることは出来なかったが、死そのものは肌で触感したように思う。

死の訪れは決して劇的なものではなく、柔らかい風のように母の身体の中をすうっと音もなく通り過ぎていったのだ。

結局‥‥。
母の強い生命力を以ってしても、医師の見立てを三度覆すことは出来なかった。



一番列車で駆けつける2人の叔母がそろそろ病院に到着する頃だろうと思い、私は通りへ迎えに出た。
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病院前の駐車場でぽつねんと佇んでいるときだった。
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何処からともなく現れた1匹の猫が真っ直ぐ私に向かって歩いてきた。


そして鳴き声を上げながら、いきなり体をすり寄せた。
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私にとっては初見の猫である。
首輪をしていないが、人懐こいところをみると飼い猫かもしれない。



その茶シロの猫は腹が少し大きく、一目で妊娠していることが分かった。
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「そうか、君のお腹には新しい命が宿っているのか‥‥」
さらに、茶シロを撫でながら「元気で丈夫な子供に育つといいな」と私は話しかけた。



身重の茶シロは私に何かを訴えるかのように、なかなか足許から離れない。
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枯れ草を相手に独り遊ぶ茶シロ。どうやらまだ若い猫のようだ。


顔をよく見ると、かなりの美猫である。
「器量良しだねぇ、君は‥‥」

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母も若い頃、美人の誉れが高かった。同級生に「お前の母さん美人だなぁ」と何度か言われたことを憶えている。


母の命の火が消えるのを見た直後に、新たな命の胎動に触れた私は不思議な因縁を感じずにはいられなかった。
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ふと見上げると、母が入院してちょうど1ヵ月目の朝陽が東の空を白く染めて昇っていた。


その時私は、まだ知らなかった‥‥。
母を亡くしたばかりの我が身に、更なる悲しい別れが、それも絶望の淵へ突き落とされるような別離が訪れることを。



【お断わり】
当日撮影した以外の写真が数点含まれています。





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生きること・死ぬこと その弐

叔母たちの希望により、母はすぐに斎場へ運ばず自宅に戻して一晩仮通夜を行うことにした。
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夜、私は母と添い寝するように、母のすぐ脇に体を横たえた。


冷房を最強にしてあったからだろう、少しまどろんで目を覚ますと、私は両足を母の布団の中へ忍び込ませていた。


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翌日の午後、葬儀社の霊柩車が母を迎えにやってきた。
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その母を玄関の中から見送る老犬サクラ。


霊柩車が走り去っても、サクラは門の方を見詰めたまま動こうとしない。
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生後間もないころ母に拾われ、以来13~14年一緒に暮らしてきたから、母の身に何か良くないことが起こったのを察知しているのだろう。


玄関の戸を閉めても、サクラは自分に声もかけずに母が再び車で去ったことが納得が出来ない様子で、尚も外の様子を窺っている。
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その後もサクラは、母の帰りを待つように同じ姿勢で動こうとしない。
それまでサクラの様子を見ていた叔母たちも「やっぱり、ずっと一緒に暮らしていたから、何か感じているんだねぇ」と異口同音に言った。



私はそんなサクラを不憫に思い、声をかけた。
「サクラ、ばあさんはもう帰ってこないんだ。でもいつかまた逢えるからそれまでばあさんの分までお前は生きろ」

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振り返ったサクラは、いつにも増して暗然とした表情をしていた。なかんずく、暗く沈んだ双眸は彼女の気持ちを雄弁に語っていた。


母の通夜・告別式は身内だけの密葬で執り行うことにした。

通夜の枕経は午後6時から始まる。
午後5時過ぎ、私の家族や叔母たちはタクシーで斎場へ向かった。
私は何かあったときに対応出来るよう一人自転車で斎場へ行くことにした。



斎場の駐車場脇で自転車から降りたときだった。
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1匹の猫が私の足許に擦り寄ってきた。それはグレーと白の艶やかな被毛のメス猫だった。


このサバシロも私にとって初見の猫である。
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前日の茶シロといい、どうして私の行く先々に猫が待ち受けているのだろう?(姿を探し求めたときは現れないくせに)


この子も首輪をしていない。飼い猫なのか野良猫なのか、私には判断出来ない。
「君には帰る家があるのかい?」

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だがサバシロは口を閉ざして何も語らない。


「いくらあなたが猫好きだからって、初対面のニンゲンに軽々しく私的なことを教えると思っているの。私を安く見ないでよ」とでも言いそうな気品を感じさせる猫だ。
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時折こうやって、警戒心のこもった目顔を見せる。だからといって、野良猫だと決め付けるのは短慮に過ぎる。


鼻梁の黒い模様が見事に左右相称していて、この猫の面差しに独特の趣を与えている。
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このサバシロもまた、鄙にはまれな美猫である。(ただし、猫社会に都会と田舎で容貌の差があるかどうか、私は寡聞にして知らない)


ところで、私が今服用しているのはSSRIと呼ばれる種類の薬で、セロトニンが減少するのを防ぐ効果がある。(その他に抗不安剤2種類を服用しているが、合わせて6mgと微量)
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比較的副作用の少ない安全な薬といわれるSSRIだが、ネットで調べてみると私の推測通り、副作用のオンパレード状態だ。
その中には、私が自覚している副作用もいくつもあった。


それら多くの副作用の中で、私を一番苦しめているのは神経過敏からくる焦燥感と高揚感だ。
それが更に昂じると攻撃性が表出してくるからやっかいだ。


幸い粗暴な行為に及んだことはないが、声を荒らげることは何度か経験している。
理性で自分の情動を抑えられないのだ。(飽くまでも理性は失わないが、隅に押しやられる感覚)


半年ほど前にその症状を医師に訴え、40mgから30mgに減薬してから副作用はいくらか弱まった。

私自身はSSRIという薬を、遅効性の覚醒剤だと認識している。
ゆえに、依存症や禁断症状(離脱症状)も当然ある。


ある本には「SSRIはコカインより恐ろしい薬だ」と専門家が訴えていると記述されている。
(ちなみに薬事法でSSRIは劇薬に指定されている)


この薬の依存症から一日でも早く脱却することが今の私の当面の目標である。


私は幼い頃より「男は人前で涙を見せるな」と周りに言われ、自分自身もそれがいわゆる“男の美学”と信じて墨守してきた。

しかし心に病を得てからは、その信条が大きく揺らいでいることを実感している。
(それも皮肉なことに病の症状より、上記のSSRIの副作用が大きく影響している)


男の美学‥‥。父の死に際しては辛うじて持ち堪えたが、母の出棺に臨んで、ついにその矜持は瓦解した。

私は柩の中の母の亡骸にすがって身も世もなく泣き崩れたのだ。
そのとき母へ盛んに語りかけていたことは憶えているが、具体的に何て言ったのか、その記憶はほとんど残っていない。


この振る舞いもSSRIによって感情の振幅が大きくなったことが要因だと思われる。

それから母の柩を載せた霊柩車で火葬場へ向かったが、その間私は虚脱状態に陥り車窓の景色をただ漫然と眺めていた。


その後は大きなアクシデントもなく、葬儀はつつがなく終わり、母は小さな壺に納まって自宅に帰ってきた。
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9月の誕生日を迎えていたら、母は81歳になっていた。病を得なければ、もっと長生きしていたはず、それが残念でならない。


これで父を家長とする家族は、私一人だけになった。
母の遺影と仏壇に納められた父と弟の位牌に向かって私は呟いた。
「そっちの方が賑やかになったね」

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家族4人が揃っていた頃の情景がフラッシュバックのように私の脳裏に現れては消えていく。
あの団欒は、もう二度と戻ってこない。



それからの数日間、私は母の供養をしながら比較的穏やかな日々を過ごした。
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ところが‥‥。
そんな私に、更なる悲しい別れが突然訪れた。



8月10日の午後、それは起こった。

仏間を出て廊下を横切るとき何気に玄関を見た私は、その異変にすぐ気がついた。
サクラが四肢を伸ばして横たわり身じろぎしていないのだ。


私はサクラに駆け寄った。しかしサクラはすでに全身を硬直させていた。

「サクラーッ!サクラーッ!」
私は完全に平静さを失い、サクラの名を絶叫した。


私は助けを求めて、妻に電話をした。でも妻が何を言っているのか、まったく頭に入ってこなかった。

そして妻から連絡を受けた息子から電話があったが、彼も立て続けに起こった悲報にただ言葉を失っていただけだった。

サクラの身体を撫でながら、私は誰はばかることなく慟哭した。

それからいったいどれくらいの時間が経ったのか‥‥。私はサクラから離れどうにか体を起こした。


そして私はサクラの亡骸を抱えると、母の祭壇が見える座敷まで運んだ。
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今回帰省した当初から、サクラの体調の異変が気になっていた。
私が実家を離れていた5ヵ月の間に、サクラは痩せ細っていたのだ。



ネットショップに配達を依頼したドッグフードは、その期間の割りに減っていなかった。
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私が実家に戻ってからは、通常の量の食事を与えてたが、体重は元に戻らなかった。


それでも7月はまだ、食欲があった。ところが8月に入ると、その食欲が細ってきたのだ。
与えたドッグフードを半日かけて食べていた。

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そしてこの日の朝与えたエサは、まったく手付かずで残っていた。この夏の猛暑で夏バテしたくらいに考えていた私が浅慮だったのだ。


私が実家を去った後は、叔母がサクラの世話をしてもいいと言ってくれていた。
それに、環境が整ったら神奈川に引き取ることも考えていたのだが‥‥。

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サクラは母と暮らしたこの家から離れたくなかったのだろうか?それとも母の死を知り、後を追ったのだろうか?


サクラもいなくなり、私は本当に独りぼっちになってしまった。
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そして家族がいなくなった実家は、私にとってただの“家”に成り果てた。


母の死は去年の夏に余命宣告された時点である程度覚悟が出来ていたが、予期しないサクラの急死は私を完膚なきまでに打ちのめした。
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サクラの死をきっかけに、私の中で何かが壊れた。それはあたかも心を覆っていた防護壁が崩壊して、心が直接外気に晒された感覚だった。


さらに周りの光景が彩度を失い、全てが意味のないものに見えてきた。
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数日経つと一時の激情は治まったが、私は自分の精神が剣呑な状態であることを自覚していた。だが、そう意識すればするほど、自虐的な感情が頭をもたげ絶望の淵の深遠へと突き進んでいった。


やがて、生きることと死ぬことの差異が判然としなくなり、その境界も曖昧になってきた。
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この心の有り様が病のせいなのか、それとも薬の副作用のせいなのか、そのときの私にはどうでもいいことだった。


そんな絶望の淵に沈んだ私を救ってくれたのは、“家族”だった。
それも、思いも寄らない家族であった‥‥。






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