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『 青天の霹靂 』という成句がある。
「予期しない衝撃的な出来事や驚くような変事が起こること」の比喩表現だ。
使い方としては、吉凶いずれを問わず、突然夢想だにしないような事件に逢着したときに「その出来事は私にとって青天の霹靂だった!」などと表現する。
だがこの成句を実際の日常生活で口にすることも耳にすることもほとんどないと言っていい。
たまにスピーチなどで耳にすることがあるが、大抵は文字として目にするに留まる。
ただし言葉として使うかどうかに関係なく、この世界では青天の霹靂と呼ぶに相応しい、予想外の事件が毎日起こっている。
卑近な話で恐縮だが、私の身にもここ数年のあいだに晴天の霹靂と言える出来事がいくつかあった。
そしてこれから書きしるす海岸猫の話もそんな出来事の中のひとつである。
訪れた私を待っていたかように、エリアの入口にひとりの海岸猫の姿があった。
茶トラのオス猫『 シンゲン 』 だ。この海岸猫は、昨年の夏頃にこのエリアへ流れてきた。
去勢手術を受けた印である耳カットを施されているところから、何処かほかのエリア(海岸ではなく街のエリア)で野良猫としては比較的恵まれた境遇にいたと思われる。
それなのにどうして命を賭してまで危険な国道を越えて海岸にやって来たのか、そのへんの事情はまったく不明である。
シンゲン自身も口をかたく閉ざして何も語らない。
『 口を閉ざす 』といってもあくまで比喩であって、大口を開けて欠伸をすることとは無関係である。
シンゲンは大きな体躯をしているし、容貌も強面風だ。
去年ここへ現れた当初はその強面ぶりをいかんなく発揮し、エリアの猫や近づくニンゲンをさかんに威圧していた。
しかしそのシンゲンの行動は、知らない場所へ流れ着いた不安を隠すための強がりだったようで、やがてほかの猫やニンゲンに対して心の扉を開いていった。
先に述べたようにシンゲンは以前のテリトリーでも篤志な人の世話を受けていたのだから、もともと人馴れした猫だったのだ。
そして去勢手術をするからには、その篤志な人はシンゲンをそれなりに大切に思っていたはずだ。
しかし茶トラの猫を捜している人の噂や伝聞の類を私は耳にしていない。
なにはともあれシンゲン自身がここに留まると決めたのだから、余人がとやかく言う筋合いではない。
ただこのエリアで、まるで兄弟のような深い交誼があった “友” との訣別がシンゲンの心に何をもたらしたのか、それだけが気がかりだ。
もうひとりのレギュラー海岸猫に会うため、私はエリアの中心に位置する駐車場に向かった。
よほどこの場所が気に入っているのだろう、シロベエは前回と同じ場所で寛いでいる。そして前回と同様とても穏やかな表情をしていた。このときは、まだ。
シンゲンの欠伸が伝播したにしては、いささかタイムラグがありすぎる。それともこの日の私は、猫たちに欠伸をさせるほど辛気くさい顔をしているのだろうか。
いつ失ったのか、シロベエの上の犬歯が一本欠損していることを、私はこのとき初めて知った。
考えてみれば、これまでシロベエの口の中を仔細に観察したことなどなかった。
もしかしたら2010年12月に消息不明になり、右後ろ脚を負傷して2週間後に戻ってきたが、そのときには既に犬歯も失っていたのかもしれない。
空白の2週間にシロベエの身に何が起こったのか、後ろ脚を損傷させたのは “ 何者 ” なのか、おそらくその謎が解けることはこれから先もないだろう。
シロベエはいきなり身体を起こすと、眼を瞠って何かを凝視し始めた。
そしてその警戒色のこもった視線をゆっくり移動させながら、小さな声を発する。
やがてシロベエは私の背後に視線を定めると、体勢を変えいつでも行動できるように身構えた。
シロベエの撮影を優先していた私はファインダーから眼を離さなかったが、自分の背後へ音もたてず近づいてくるのは誰なのか見当がついていた。
思ったとおりそれはシンゲンだった。
前回もやはり私がシロベエにかまっているときに、いきなり後ろから頭突きをしてきた。
さっきは欠伸をしてそっぽを向くというにべない態度をしておきながら、ほかの猫に私が関心を示すとこうやってすり寄ってくる。
私がシロベエに近づかなかったら、おそらくシンゲンはさっきの場所で通りを往来するニンゲンを眺めて無聊を慰めていたはずだ。
こういう行動を『 やきもち 』と感じるかもしれないが、識者によれば猫には『 嫉妬 』の感情がないそうだ。
また猫は嫉妬深いなどと巷間言われている。
しかしそれもあくまで嫉妬に似ている感情であって、ニンゲンが持つ嫉妬心とは別物だという。
家猫の場合も新入り猫に対して先住猫が攻撃的になったとしても、それは単純に自分のテリトリーに入り込んだよそ者への怖れや怒りの表れだそうだ。
それに単独行動を旨とし独立独歩を標榜している猫には、自分と他者とを比較して羨んだり自惚れたりする概念がないという。
この説には私も賛同する。なんとなればほかの猫を見て「自分より毛並みがいいな」とか「自分より幸せそうだな」と猫が感じるとは、その気質からして考えられないからだ。
ちなみに人間の基本的欲求は5段階のピラミッドのように構成されていて、低階層の欲求が充たされると、1段階上の欲求が出てくるという説がある。
アメリカの心理学者アブラハム・マズローが理論化した『 マズローの欲求5段階説 』だ。
1 「生理的欲求」(食べたい、寝たい)
2 「安全・安定の欲求」(安全・安心な暮らしがしたい)
3 「所属と愛の欲求(社会的欲求)」(集団に属したい、仲間が欲しい)
4 「承認(尊厳)の欲求」(集団から認められたい、尊敬されたい)
5 「自己実現の欲求」(能力を引き出してあるべき自分になりたい)
おそらく求めるものが多く、そして高次になるほど、それが叶わなかったときの落胆も大きくなり、その副産物として妬みや恨みの感情が生まれるのだろう。
フリーランスの私はさしづめ、いくつかの幸運に恵まれて5階層目に登ったものの確固たる立脚地を築けず、けっきょく2階層目まで転落し、未だにそこで懊悩しているといったところか‥‥。
では猫の基本的欲求を『 マズローの欲求5段階説 』に当てはめてみよう。
群れを作る動物なら3階層まで望むかもしれないが、独りを好む猫の場合は2階層目に留まりそうだ。
そしてそこまでの階層では『 嫉妬 』の感情が入り込む余地のないことが分かる。
ただ猫の性格によっては、シンゲンのようにかまってほしいとか遊んでほしいという欲求を持つことはあるだろう。
先の攻撃的になる先住猫の例では相性もあるが、飼い主が新入り猫ばかりに心を向けないでふたりを平等に可愛がれば、先住猫が嫉妬に似た感情を露わにすることもなくなるという。
はたして猫に嫉妬の感情はあるのか、ないのか?
正直私には分からない‥‥。
ただこれだけは言える、どちらにせよ私にとって猫は感性豊かな魅力あふれる生き物であり、今では人生の伴侶としてかけがえのない存在になっている、と。
ところで、シロベエとシンゲンの仲はどうなっているのだろう?
このエリアでは先輩になるシロベエが鼻にしわを寄せた怒りの表情で “ 吠えた ”。
そしてゆっくりと視線を移動させる。おそらく私の死角にいるシンゲンに照準をあわせているのだろう。
どうやらシロベエとシンゲンの仲は昨年のままか、少なくとも友好的ではないようだ。
私の推測だが、同じエリアで暮らす海岸猫にも暗黙のうちに各々小さなテリトリーがあり、シロベエは駐車場の一画、新参者のシンゲンはエリアの入口付近がそれにあたるのかもしれない。
だからシロベエは自分のテリトリーを侵したシンゲンに怒りを覚えたのではないだろうか。
以前ならリーダー格のマサムネやシシマルがこの手の諍いを治めていたのだが、彼らがいなくなった今、仲裁に入る海岸猫はひとりもいない。
そもそもマサムネやシシマルなら各猫がエリア内に自分のテリトリーをつくることを認めなかっただろう。
シロベエが立てていた尻尾を伸ばしたまま低く下げた。これは猫が攻撃的になっているときに見せる仕草である。
シンゲンの挙動は私には見えないが、シロベエが優位にたっているのはシンゲンから一瞬たりとも眼を離さないことからも明らかだ。
猫同士がケンカを始めたら、側にいるニンゲンはどう対処すればいいのか?
これはあくまでも経験則にもとづく私見だが、原則的に家猫・外猫を問わず傍観すべきだと考えている。
たとえいったん阻止したところで、相性の悪い猫同士はニンゲンがいないときにケンカを繰り返すから、その場しのぎの干渉をしても意味はない。
それに仲裁したことにより優位な猫が不満をつのらせ、のちのちもっと酷い争いに発展する可能性すらある。
さらに言うと、ケンカをすることによって互いの関係がしっかり形成され、その結果として深い友誼を結ぶことだって考えられる。
ただし勝敗が決しているのに執拗に攻撃を加える場合や、一方が逃げ場のないところへ追い詰められた場合は、重傷を負うことがあるので速やかに介入したほうがいい。
私がふたりのあいだから離れると、すぐにシンゲンが後を追ってきた。
劣勢のシンゲンは別の場所に逃走するより、今は私の側が一番安全だと判断したようだ。
シロベエも小さな唸り声を発しながらこちらに向かってくる。
〈つづく〉
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