病魔 (前編)

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午後10時、私は海岸沿いを走る国道の脇にいた。
その国道の向こう側に広がる防砂林は今、深い夜の闇に溶けこんでいる。

こんな遅い時刻に海岸へ来たのには、もちろんそれなりの理由があってのこと。
実はこれより15分ほど前に一本の電話が私のもとにかかってきた。


相手はリンエリアのボランティアである松田(仮名)さん。
松田さんとはたまに海岸で会うことはあっても電話で話したことは過去に1、2度だけ、それに加え午後9時半過ぎという遅い時間に、私は嫌な予感を覚えながらキーを押した。


「あ、もしもしwabiさん‥‥」という松田さんの声は聞き取りにくいほどかすれている。
小声というより、ややくぐもった声音だ。
私は不吉な予感が現実になりかけている不安を抑えながら、努めて冷静に「何かあったんですか? 」と訊いた。


すると松田さんは「リンちゃん、もうダメかもしれない」と涙声で言った。
続けて「もう3日もご飯を食べないで、小屋から出てこないの」と言う。
さらに「わたしたちのリーダーの大塚さん(仮名)は野良猫は自然にまかせる考えだから、病院には連れていかないで、このまま死んでしまったらエサ場の近くに埋葬するつもり」と松田さんはすすり泣いた。

連絡をくれたことへの礼を松田さんに述べて、私は電話を切った。
そして私はすぐに服を着替えて自宅を出ると、海岸へ向かって自転車のペダルを漕いだ。


防砂林に設置された数少ない街灯の明かりがとどかない領域、そこは闇が支配する世界である。
私は自転車から降りると、小さなライトで足元を照らしながらリンエリアのエサ場へむかって歩いていった。

私がエサ場に近づくと、猫ハウスの中から小さな影が飛び出して離れたところにある別のハウスにもぐり込んだ。
その影の正体はリンだった。どうやら私を知らないニンゲンと勘違いして驚いたようだ。


松田さんの話からてっきり危篤状態だと思っていたのでリンの動く姿を見て、私はほんの少し安心した。
ところが私だと分かってからも、リンはハウスから出てこようとしない。

知り合って5年になるが、こんな状態のリンを見たのは初めてだった。
そもそも小屋の中にこもっているリンを見たことなどこれまでに一度もなかったのだから。
重篤ではないにしてもやはり彼女の具合はかなり悪そうだ。
私がハウスに中へ手を差し入れて身体を撫でると、リンは甘えるように小さな鳴き声をあげた。

私の手のひらに伝わってくる体温は高く、リンは明らかに発熱の症候を示していた。
猫は怪我をしたり病気になると、じっと動かないで回復するのを待つ習性をもっている。
リンもその習性にしたがって、今はただおとなしくしているのが最善の方法だと承知しているのだろう。

リンが重体なら最期を看取るつもりでキャリーバッグを持参してきていたが、病状がそこまでではないことが分かったので、この日の保護は見合わせることにした。
「リン、またあした来るから、それまでしっかり休むんだよ」と言って、私はエサ場をあとにした。
そして翌日‥‥。


リンはエサ場近くの猫ハウスの中で横たわっていた。
昨夜と同じように、私が名を呼んでもまったくといっていいほど反応を示さない。

入口から垣間見えるリンの表情は精彩を欠き、とくに瞳からは生気というものが失われている。
リンの身体を触ってみると、熱はまだ下っていなかった。
病魔におかされた彼女は、今もこうしてそのやまいと懸命に闘っているのだ。

私はそれから、猫ハウスの前に腰をおろして、リンの身体をさすりながら色々な話をした。
リンと初めて会ったときのこと、子どもを紹介してくれたときのこと、2回目に出産した4にんのうちふたりを里子にだしたときのこと、そしていなくなったほかの子どもたちの消息について‥‥。
リンとの思い出はいっぱいあり過ぎたし、私の頭もいささか混乱していて、時系列を無視した脈絡のない情景が次からつぎに浮かんでは消えていった。
それから4、50分ほど経ったころ、やはりリンのことが気になっているのだろう、電話をくれた松田さんがエサ場にやってきた。

松田さんがサキに食事を与えていると、リンが小屋から出てきて一緒に皿に盛られた猫缶を食べはじめた。
それをみた松田さんは「3日振りにリンちゃんがごはんを食べてくれた」と歓喜の声をあげる。

松田さんの喜びに水を差すつもりはないが、回復の兆しがあらわれたのは一時的なものかもしれず、それを暗示するかのようにリンの食欲は完全に戻っていない。
3日振りに食事をしたにしては猫缶にほんの少し口を付けただけで、その場から離れてしまったからだ。



リンはそれから、軽くあいさつを交わした娘のサキを見送ると、その場にじっとたたずんだまま動こうとしない。



しばらくそうしていたリンだったが、私が彼女の前方に回りこむと、おもむろに歩を進め、私のそばまで来るとその場に腰をおろした。


リンの視線はサキに注がれている。
自分が病身であっても娘のことが気にかかるのかもしれない。


あたりを見まわすリンの眼光に気迫のようなものが戻ってきたように、私には感じられた。

本来の状態にはまだほど遠いが、リンの身体は徐々に回復しているのだろうか。

リンはやおら身体を起こすと、ゆっくりと歩きはじめた。


その足付きは普段のリンからすれば緩慢で、地面の踏み具合を確かめているような歩きかただ。

リンが向かっている前方にはサキがいる。やはり娘の様子が気がかりなようだ。


松田さんに言わせると、この3日間ハウスの外に出たリンを見たことがなかったそうだから、やはりリンの病状は軽快に向かっている可能性がある。

近づいてきたリンに対してサキはやや遠慮がちな反応を示す。
母の様子が普通ではないことを、おそらくサキは本能的に感じ取っているからだろう。


サキが何をしていたのか私も気になったので、近づいてよく見てみると、キャットフードの空缶が地面に転がっていた。
さっき食事を終えたばかりのサキが猫缶の匂いに誘われたとは考えにくいので、おそらく空缶そのものか、なかに虫か何かがいて、それに興味を示していたのかもしれない。


だがリンにはただの空缶としての価値しかなかったようで、なかを一瞥しただけですぐにきびすを返した。


リンはエサ場近くまでもどり地面にうずくまると、さきほどと同じようにサキに視線をおくる。
普段のリンならサキと行動をともにするのだが、そうしないところをみるとまだ身体が思いどおりに動かないのだろう。


ただリンの表情を見る限りにおいては、さきほど見せた気力のようなものが、さらにはっきりとした形をとってきているように思えた。
少なくともこのときは‥‥。


松田さんはリンにそばにかがむと、「リンちゃん元気になって良かったね」と言いながらリンの身体を優しく撫でる。
その様子を眺めていた私も、リンが早く全快してくれることを願わずにはいられない。
振りかえるとサキの姿が消えていたのであたりに視線をめぐらせると、彼女は意外な場所にいた。

いつの間に登ったのか、地面から3メートルほどの高さに渡された防砂フェンスの胴縁の上から下界を見おろしている。


それからサキは、直径10センチほどの胴縁パイプの上をゆっくりと進みはじめた。
このフェンスを設置したひとは、まさかこのように野良猫にキャットウォークとして利用されるとは考えてもいなかっただろう。



この光景は以前にも見たことがある。ただしそのときはサキではなくリンだったが。
そのときの模様は 『パフォーマンス(中編)』 と 『パフォーマンス(後編 1)』 を参照されたい。


サキは胴縁パイプの行き止まりまでくると、下を見おろしながら鳴き声をいくどか発した。
いったい誰に向かって、何を伝えようとしているのだろう。
ここ数日、小屋で寝てばかりの母の変調に心をくだき、「母さん、はやくもとのように元気になってよ」とでも言っているのだろうか?


やがて遠くを眺望するようにあたりを見まわすと、サキはいきなりアルミ製のボックスに身体を擦りつけた。
マーキングのつもりなのか、懸念をかかえた感情を転換するための転位行動なのか、私には判断がつきかねる。


サキはそれから、いきなり後ろ足のグルーミングをはじめた。
猫のグルーミングは顔を手始めにして、徐々に下へ移動し最後にお尻に至るのが通常だ。
その順番をたがえていきなり後ろ足を舐めるというサキの行為、これはおそらく転位行動だろう。


高所を好む猫にしても、足元が不確かな細いパイプの上ではさすがに気が張りつめるのかもしれず、そんな様子のサキを見ている私にもその緊張が伝わってきていささか心配になってきた。
サキはどうやって地面に下りるつもりなのか、彼女はその手段を知っているのだろうか。


が、そんな私の心配は杞憂に過ぎなかった。
サキはフェンス近くに張りだした松の枝に前足をかけると、巧みに乗りうつる。


これも以前リンが取った方法とまったく同じで、おそらくサキは母の行動を見て学習したのだろう。

以前のサキには木登りの苦手な猫という印象をもっていたが、それはただ幼かったからであり、やはり木登り巧者のリンの血は娘に正当に伝搬されているんだな、と認識をあらたにした。


そして 『血は争えない』 とか 『蛙の子は蛙』 いう諺は、猫にも当てはまるということも教えられた。

しかし木を登るのが得意な猫でも、下りるのはぎゃくに苦手としているので、サキが地面に到達するまで油断はできない。
松田さんも私とおなじ気持ちなのだろう、不安げな表情でサキを見あげている。


だけどやはりリンの特質を継承しているサキ、足運びはなるほど慎重だったが、難なく着地した。


ほんの少量とはいえ、リンが3日振りに食事を摂ってくれて安堵したからだろう、帰っていく松田さんの足取りがこころもち軽やかに感じられた。


灌木の下で、猫がリラックスしているときに見せる香箱をつくっているサキだが、裏腹にその表情は険しい。
やっぱり母のことが心にかかっているせいだろう。


やがてサキは踏み分け道に出ると、松田さんのあとを追うように防砂林の入口へ向かってゆっくりと歩きはじめた。


いつも一緒に行動する母がいないせいなのか、サキの足取りはいくぶん重い。


そうして防砂林の入口に腰を下ろしたサキは、レンガ道の先を見つめはじめる。
リンとサキは顔見知りのひとが帰途についても、そのあとを追いかけたりはしないが、こうして去った方角をしばらくのあいだ名残惜しそうに見つめることがある。

サキは松田さんがまた戻ってきてくれないかな、と思っていのかもしれない。
私はリンのことが気がかりだったので、もう一度エサ場へ行ってみることにした。
すると‥‥。

私がエサ場に着いたときと同じように、リンはハウスの中で身体を横たえていた。
リンの身体に巣くっている病魔は、彼女が長く動くことをまだ許してくれていないようだ。
家猫なら動物病院へ連れていってもらえるが、野良猫の場合はそう簡単にことは運ばない。
海岸猫を世話するボランティアさん数人と面識があるが、猫が病気になったときの対応はそれぞれ異なっている。
猫の体調に異変があるとすぐさま病院へ運ぶひともいるし、怪我は治療するが疾病の場合は猫自身の治癒力にまかせるというひともいる。
これらの対処の方針についてとやかく言える立場に、私はいない。

私はときおり海岸猫の様子を見に行くだけだが、ボランティアのひとは1日もかかさず海岸におもむき猫たちに食事を与えエサ場を掃除している。それこそ雨の日も雪の日も。
そしてリンとサキの世話をしているボランティアさんたちの総意が “リンの回復力にゆだねる” というものなら、私がそれに口を差しはさむ余地など1ミリだってありはしない。
そのひとたちにとって私は、あくまでも部外者であり第三者なのだから。
けれど、もしもリンが起きあがれなくなるほど重篤になったら、保護して最期を看取るという私の考えに変わりはない。
なんとなれば、知り合って5年になるリンが、こんな寂しいところで孤独のうちに死んでいくのはとても耐えられないからだ。
たとえ部外者であっても、それくらいは許されるだろう。
〈つづく〉
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